昭和50年03月24日 朝の御理解



 御神訓 一、「忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり。」

 わが心で犯す事もあり払う事もありと言うのですから、わが心次第です。実を言うたら、忌み汚れと言うものはないんだと言う事です。忌み汚れというものは、大体はないのだ。そうでしょうもん。わが心で祓う事も出来れば、それをまともに受けると言う事になるのです。だから本当いうたらないのだと。清き所も汚き所も、天地金乃神様の御守りの中だと。いうなら天地金乃神様の御守護の中にあるのだから、御守護そのもので清められておる。良いも悪いもないのだ。
 所が私共は観念があります。観念的な思い方というものがありますから、汚れておるとか、忌み汚れというものを感じる所に、おかげの受けられない理があるのです。ですから、どうしてもこれをスキッとする為に、例えて申しますと、告別式から帰って参りますと、是はお道の信心でも、勿論是は神道からきたのでしょうけれども、帰ってきた者は正面玄関に塩やら手洗いやらを置いて、そして幣を置いといてから一人一人祓います。そして家の中に上げるんですよね。
 それはしきたりのようてすけれども、例えば死人と一緒に会ったとか、火葬場に行っとったとか、告別式だとかという所が、縁起が悪いもののような思い方をする訳です。ですから着物でも何でも、汚れておると言う様な観念がありますから、そこで矢張り祓いが必要なんです。祓われるとああこれで清められたという気がする訳です。だからそこの所へ、例えば父の告別式の時でもそうです。正面玄関に清めの水と祓い幣を置いといて、火葬場から帰って来たのを皆祓いました。
 だからそれはしきたりだと成程それはしきたりなんです。けれどもそれを受けると心が清まった、祓われたという気がする訳ですだからそこをもう一つ超越すると、それは忌み汚れはないのだけれども、自分でわが心で犯す事もありゃ祓う事もあると仰る。だから観念が、そういうお葬式ならお葬式と出合っても、心が何か汚れたように言う人があります。黒塗の自動車霊柩車とすり合うただけでも、ああ縁起が悪かと思う人もある。
 縁起が悪いと思う心がです、縁起の悪い事が起きて来る様な理があるのです。ですからそこに清めの術というか、清めのしきたりがあってもです。例えば塩をまくとか体を清めるとかと言う様な事で心をスキッとする。そこにスキッとしたおかげが、又頂ける事になるのです。非常にそのへんが微妙なんです。実をいうたら今申します、忌み汚れはないのだと言う事が,わが心で犯す事もあれば祓う事もあると言われるのですから、実際はないのだと言う事です。
 縁起が良いと思うたら、矢張り縁起の良い事が起こってくる。はぁ縁起が悪いと思うたら、縁起の悪い事が起きてくる。人間はどうにもしようがない。そういう弱さを持っておるわけです。それ段々信心が手厚うなってまいりまして、本当にどの様な場合であっても、神様の御守護の中にあるのだという実感が強うなって参りますと、その心が祓うのです。いつも私が例に話しますように。終戦直後に御本部月参りを、親先生のお共をして参っておりました。その時は婆しゃまも御一緒でしたあちらの親奥様。
 そして三人出かけましたら、境内を出る前に婆しゃまの下駄の緒が切れたんです。私も一緒に三人で行きよった。そしたら婆しゃまがそれを、ああおかげ頂いたと言われたです。今から旅立としておる。それに鼻緒がプッツリ切れた。はぁこれは縁起が悪かと思うから、そこに縁起の悪い事が起るのです。ほんにそう言や、出掛けに鼻緒がプッツリ切れた。何か悪い事が起こりだんせんだろうかと、思い思い行くような思いが、悪い事を呼ぶ結果になるんです。
 だから問題はそう言わんならじゃなくて、心からあぁおかげを頂いたと思う心なんです。だから一遍に出来ることじゃないと言う事です。私はその時に本当に感心致しました。何十年間先代に連れ添うて、信心の稽古心の使い方を稽古しておられる。流石だなと思うた事がありますよ。おかげ頂いたと言う所におかげが頂かれる。ああこれは縁起が悪かと思う所に縁起の悪い事が。私共がそういう心の時に、わが心で祓う事もありゃ、それをまともに受けるような事にまでなってくるのです。
 丁度内田さんの所の五十日祭が、ここで仕えておる時でした。日田の綾部さんのお導きで、時々参ってくるのですけれども、日田の何とかホテルの女将さん、あちらは綾部さんよりも何キロか大きいというのですけれども、えらい相撲取りさんのごたるお方ですから、参って来てから、暫くお話をして、ある事でお願いに見えたんですけれども。実は先生、私は不思議なお夢を頂いた。日田のあちらは、ここへんからもお参りが多いですが、高塚のお地蔵さんというお地蔵さんがある。それを時々参られる。
 直ぐその麓に茶屋があるんでしょう。麓屋とかなんとかいう茶屋があるらしいのです。そこは大変心易い家だそうですから、夢の中でそこに私が行っているのです、麓屋へ。所が私が急に気分が悪くなって、死にかかる程にきつくなって重体に陥った夢を頂いた。そして今日ここにお引き寄せを頂いたら、丁度仏教しかよう知られんから丁度御法事がありよった。愈々いけない事だろうとこういう訳なんです。お願いに参って来たら丁度ここで、五十日祭の旬日祭がここであっておった。
 ここで目出度い事でも、結婚式でもあっておったら、心が晴れたかもしれません。ところが今朝方お夢を頂いたばっかりの自分が、死にゃせんじゃろうかと言う様な病気を、麓屋でしたと言う事に、心に引っ掛っておったのがここへ来たら、此処でまたご法事があっておったとこう言うのです。それで私はその方に申しました事でした。それは例えばあなたのお願いをいつも聞かせて頂いて、ただおかげを頂くだけならば、そりゃ高塚の地蔵さんでよかですよ。
 わざわざここまで参ってこんでん、あちらの方が近いちゃろう。あっちならお初穂も要らんしお賽銭だけでよか。おかげだけなら高塚の地蔵さんてんよかろうけれども、ここではおかげだけではない、心直しの神様ですから教えを頂かにゃならん、教えを頂くと教えを鏡にしての生き方を身につけて行かなければならない。そこにおかげではない、信心が頂け、信心だけではない、お徳が頂けるという事になるのですよ。
 その信心を頂きお徳を頂く為に、私共はいつも自分を空しゅうして行く事にしております。いうなら我情我欲を離していく。自分というものをいつも空しゅうして行く。それこそ死んだ気でという様な信心をして行く。そこには腹立ちもなからなければ、思い過ごしも要らん。そういうおかげの状態が開けて来るんです。麓屋と言う事は、あなたが合楽に参って来た。そういう信心の今あなたは麓にある所ですよ。
 半死半生と言う事はです、ここで御理解を頂いて、或る娘さんの結婚の事で、大変な心配のことで参って来ておったけれども、あなたが自分というものを空しゅうして、自分が死んだ気でおってごらんなさい。それなら心配は何にも要らんとですよ。そして神様にお取次を頂いて、お願いをして行くのですから、おかげになる事は間違いないから、心配は要らんでしょうがと。あぁ今日は先生のお話を聞いてから、始めて心が晴れたとこう言うわけなんです。
 私はそのお夢は正しく私が言う通りであったとこう思うです。自分が半死半生であるところにきつさがある。けれども死んだ気になれはです、その心配事すらもなくなってしまうのだ。心配事がなくなる心が晴れるから、晴れたおかげになっくるんだ。と言う訳なんです。自分が死ぬか生きるかという病気を、しかもお地蔵さん参って麓屋で自分が倒れておる。これは自分の上に何か災難でもかかって来るのじゃなかろうかと思うて参って来た矢先にです、ここでは丁度御仏事ごとがあっておった。
 これは愈々いかんばいと思うたそしてお話を頂いていくうちに、成程という心が開けて合点が行ったと言う事です。おかげの世界に入るのとおかげの世界を自分で塞いでしまうあり方がそこにあるでしょう。実を言うたらそれは不浄忌み汚れというのはないのだけれども、自分の心で作ったり又犯す事もあり、祓う事もありと教えられるのです。けれどもこういう時大事な事ですよね、お互いの心の中にです。はぁこげな心の状態じゃおかげにならんという状態の時がありましょう。
 それは矢張り一つのお祓いを受ける気持ちにならにゃいけんです。昨日高橋さんが奥さんと二人でお参りしておった。奥さんが昨日の朝お夢を頂いておる。そのお夢の中に竹脇無我と頂いたそうです。俳優がおるでしょう竹脇無我という俳優が。どう言う事でしょうかとこう言う。それは竹脇無我になる事だよと。例えていうならばあんたの所のお父さん、高橋さんはそれこそ一事が万事にお取次を頂いて、御神意のままに動く人なんだ。神様の前には竹です素直です。神様の前には素直一途で行こうとしておる。
 その脇におるのがあんたなのだいつも。夫婦ですから主人の側にいつもあるのだ。ですからこと主人の言う事に対しては、自分の意思を出さずに、自分の我を出さずに、とにかくお父さん任せとういう気になるとあなた自身も楽になる、あなた自身もおかげを受けるとよ言う事だと言う事です。竹脇無我と言う事はそう言う事なんだ。だからお父さんが右と言う私は左が良いと思う。けども私はお父さん左が良いと思いますがねと。うんそれもそうねとお父さんが言うならそれで良い。
 けれどもお父さんが右と言う、自分は左が良いと思うけれども、左が良いという事を進言もしてみたけれども、いいや御神意を頂いての事だから、右が良いと言う時にです。全然左と言うちゃならんじゃないけども、一応は自分の言い分も述べてもみるけれども、それでもなお且つ、お父さんが右が良いという時には、自分の我を捨ててお父さん任せになりなさい。お父さん任せになると言う事は、神様任せになると言う事でもあるのですから、というわけです。
 私共がこの竹脇無我になると段々おかげを頂いて、忌み汚れは感じなくなる。無我我が無い。自分というものが空しゅうなっておるものに対して、忌み汚れが生ずる筈もある筈もないのです。信心はどこまでも無我になる稽古です。それこそおかげだけならは高塚のお地蔵さんでも良いけれども。そういう人間の真実の幸本当の幸福、しかもあの世にも持って行かれば、この世にも残しておけるという様なものを頂いて行く事を以て、信心とさせて頂く人は、そういう小さな心の動きにもです。
 心を使わせて頂いて場合には、祓うて頂くだけで心が晴れるかもしれない。場合にはその心を清めようという精進が清まる事になるでしょう。実をいうたら忌み汚れはないのだと。それを合楽ではこんな汚い事と思う事に対してもです、御の字をつけられる所に、それはおかげと言う事になるのだ。御の字をつけさえすれば良いと言うのじゃない。御の字を付けると言う事はです、神様のおかげと言う事です。神様の御働きと言う事なんです。それを実感するから、御の字を付けなければおられんのです。
 所が私共はそこの信不足ですから、火葬場なら火葬場にでも行って、時には何か汚れたような気がする。帰ったらそこでお祓いを受けると、それで祓われたような気がする。その祓われたような気がするという、その心がおかげに繋がるのです。皆さんも高橋さんの奥さんじゃないけれども、本気で竹脇無我なる稽古をさせて貰う。すべての事に御の字を付けさせて頂く様になるとです。成程忌み汚れはわが心で犯す事もあり、祓う事もありと、自分の心で祓う事も犯す事もあると言われるのですから。
 実をいうたらないのだと言う事です。無いものを私共があるように、鼻緒が切れた出掛けにはぁ縁起が悪い、そげな事ではないのだけれども、あぁ縁起が悪いと思うから縁起が悪い事が起きてくる。はぁおかげを頂いたという心の状態に、次のおかげが待っておるわけです。信心の稽古をさせて頂くなら、そういう小さい心の動きにも、心を止めさせてもろうておかげを頂いて行く。要は竹脇無我にならせて頂く稽古をさせて頂かねばならんですね。
   どうぞ。